殿ヶ谷戸庭園、お鷹の道と真姿の池湧水群

去年の十二月初旬、国分寺駅付近から武蔵国分寺跡にかけて散歩しました。武蔵国分寺一帯は別の機会に紹介するとして、まずは殿ヶ谷戸庭園とお鷹の道、真姿の池湧水群について。



殿ヶ谷戸庭園は大正二年から同四年にかけて三菱合資会社の幹部、後に満鉄副総裁となる江口定條の別邸が建てられ、昭和四年、三菱財閥創業家の岩崎彦弥太によって庭園として整備された。昭和四十九年、東京都が買取り、地域住民の「殿ヶ谷戸の緑を守る会」の保護運動などもあって昭和五十四年、日本庭園として一般公開されて今に至る。

殿ヶ谷戸庭園は国分寺崖線(こくぶんじがいせん)――武蔵野台地が多摩川に浸食されることで、武蔵村山市から世田谷区にかけて形成された武蔵野台地が立川段丘へと落ちる崖地――の一角に位置する。谷戸(やと)とは自然が作った谷地のことで、1)三方が台(丘)に囲われ、一方が開いている、2)囲われた低地は湿地、後に水田となったところが多い。3)谷底から溢れた水が流れ出しているなどの特徴がみられる。関東地方を中心に多くみられ、武蔵、相模地方において殿ヶ谷戸(とのがやと)・谷戸川(世田谷区砧公園を流れる川)など地名として使われることが多い。また同じ谷戸地形はやつ(扇ガ谷、谷津など)、さわ(北沢、野沢など)、くぼ(浅久保、荻窪など)、ふくろ(袋、池袋など)などとも呼ばれる。東北地方ではやちと呼ばれる(参考:田中正大著「東京の公園と原地形」P21-28,165-171)。

敷地面積は21,123.59平方メートルで、20分から30分もあれば一回りできる程度の広さでしかないが、起伏にとんだ地形に、紅葉の季節ならば色とりどりの木々、竹林が植えられ、天然の湧水が流れ込んだ次郎弁天池など非常に歩き甲斐がある。



国分寺崖線に沿って落ちていく傾斜。この起伏はたまらない。写真左が国分寺崖線でその上が武蔵台台地、右が立川段丘でこの谷底にあたる谷地が殿ヶ谷戸と呼ばれる。



竹林にて物思いにふける猫様をお見かけする。



しかし、竹林の賢猫様は人間なぞ相手にしてられぬと、いずこかへ・・・

次郎丸弁天池


天然の湧水を国分寺崖線の段差を利用して滝にして次郎丸弁天池に流れ込ませている。谷戸地形ではこのような天然の湧水が流れ出して池となるハケと呼ばれる形状が至る所に見られる。あるいは国分寺崖線そのものをハケと呼ぶことも多くある。ここは都内でもそのハケの代表格として挙げられるほどの美しさで知られる。



天然の湧水が流れ込んだ池。紅葉とのマッチングがひじょーーに美しくて惚れ惚れする。写真がいまいちなのはまぁ大目に見ていただいてですね、ぜひ生で見ていただきたいところ。





自然の湧水を利用した鹿おどし。カコーンと風情のある音を聞かせています。



国分寺市内に現存する十一基の馬頭観音の一つ。文政七年(一八二四年)七月二十三日建立とある。当時の国分寺村は戸数六十六、男一五七人、女一四九人、馬二十二頭であったという。馬は農耕に従事したほか、薪炭や野菜などを江戸へ運搬したり、府中宿への助郷として供給された(園内の掲示板より)。馬頭観音は馬の供養のために特に江戸時代以降に各地で建立された供養塔で、馬の供養の他、旅の安全なども祈られた。助郷について簡単に説明すると、江戸幕府は江戸を拠点として発展させるべく五街道を整備し、街道沿いに中継地点となる宿駅を設置、さらに公用輸送を円滑に進めるため周辺の村落に対し、各宿場への人馬の提供を義務化した。その夫役を助郷と呼ぶ。国分寺村には最大十五頭の馬の供給が期待されていたとのことなので、それに十分応えることが可能な馬があったということだろう。また、供給できない場合は金銭で代納できる。

馬頭観音は関東地方のありとあらゆる場所にあったが、戦後の都市化の過程で、その多くが取り壊されるか、神社仏閣あるいは郷土博物館などに移設されているので、見つけてみるといいと思う。そして、その由来などを調べてみると、当時の名もなき人々の営みがじわじわと浮かび上がってくるのでとても面白いのです。




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JR中央線・西武国分寺線・多摩湖線「国分寺」駅南口徒歩2分

さて、殿ヶ谷戸庭園の西側に面した道路を南方向へ十五分ほど道なりに歩いて住宅街の間を抜けたあたりから国分寺崖線から流れ出して野川へと注ぐ小川に沿った「お鷹の道」という遊歩道が整備されています。

お鷹の道




寛延元年(一七四八年)、国分寺一帯は尾張徳川家のお鷹場に指定された。鷹狩は古くから権力者たちの遊戯として親しまれ、徳川家光の代に公式に江戸近郊の一帯に鷹狩を行う地域「鷹場」が指定された。多摩地区には三鷹など鷹場由来の地名も多く残る。そのような歴史にちなみ、国分寺崖線から流れる清流に沿って昭和四十七年に整備された遊歩道に「お鷹の道」と名付けられた。

現在でも夏になるとホタルや、そのホタルの餌となるカニワナなどがみられるほか、現在でもこの清流で洗濯をする様子も見られるとか。あとで紹介する真姿の池湧水群とともに環境省指定名水百選にも選ばれている。



住宅街の間を抜けていくお鷹の道を十分程度歩くと、真姿の池との岐路に。



右折すると、ひときわ美しく整備された遊歩道が目の前に広がる。

真姿の池湧水群


国分寺崖線から湧き出た水がこの左手付近にある真姿の池と右手の用水路へと流れ出して流路を作り、野川へと至る。野川はやがて多摩川へと合流し東京湾へと続く、その源流の一つ。写真のように崖線と崖線上の雑木林、斜面の中腹にあるおやしろ、水が湧き出てくる流路のバランスがひじょうに美しくて見惚れる。

真姿弁財天


真姿の池に弁財天が祀られている。言い伝えによると「嘉祥元年(八四八)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて二一日間参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになったという」(現地の掲示板より)。

玉造小町は謎に包まれた人物の一人である。玉造小町伝説は平安中期から平安末期にかけて成立した物語で、かつては美しかったが親兄弟を失い零落して老いさらばえて街を徘徊し、往時を思い出しながら自らを語るという物語になっている。その彼女の伝承はいつしか小野小町と重なり合って、小野小町伝説として語り継がれるようになっていく。そのようなよく知られた悲劇のヒロインの傷すら癒す、という伝承によってこの湧水地の美しさを讃えるものとされたのであろう。



この日も見かけたが、湧水を汲みに来る人は多いらしい。ただし水質は劣化しているようで、かつては生水での引用は禁止であったらしいが、現在、環境省のページでは「飲用としては不適」とされているので注意が必要だ。

湧水の湧出口のあたり




ということで涼やかな水源地を堪能したので、お鷹の道に戻り、そのまま武蔵国分寺跡へと向かった。ということで続きはまたそのうち。


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JR中央線・西武国分寺線・多摩湖線「国分寺」駅南口徒歩15分

参考サイト
殿ヶ谷戸庭園|公園へ行こう!
宿駅伝馬制度って、なんのこと?
助郷 - Wikipedia
京浜河川事務所|多摩川の名脇役|お鷹の道
タチオンWalking(ウォーキング)−お鷹の道(国分寺市)
環境省選定 名水百選/詳細ページ
玉造小町子壮衰書
小野小町の謎



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過去百年(1911-2011)の歴史的事件まとめ動画



一九一一年から二〇一一年までの百年の政治経済を中心とした事件を一〇分にまとめた動画。アムンゼンの南極点到達から二度の世界大戦、世界恐慌、ナチスやファシスト党の台頭、ソ連の建国、東西冷戦とそれにともなう数々の局地戦、イラン革命、ゴルバチョフの登場からベルリンの壁崩壊、繰り返される殺戮、容赦なく襲う災害、9.11、アラブ諸国の政変、そして二〇一一年三月十一日の東日本大震災・福島原発事故まで。

畳み掛けるように紹介されていく劇的といっていい歴史的事件の数々を再認識させられつつも、この映像で語られなかった数多の人々の喜怒哀楽と日々の営みに思いを馳せ、あらためて二〇一二年が良い年であらんことを祈りたいと思いました。

この動画を見ながら、この百年史にふさわしい文章を探すとしたら、やはりこれだろうか、と思ったので最後に紹介しておきます。

「歴史の天使は顔を過去に向けている。わたしたちが出来事の連鎖を見て取るところに、かれはただ一つの破局だけを見る。その破局は、瓦礫の上に瓦礫を積み重ねては、かれの足下に投げ出していく。天使は、できることならばそこにとどまって、死者たちを目覚めさせ、粉々になったものを元通りにしたいと思う。しかし、楽園から吹きつけて、翼が激しく煽られているために、天使は翼を閉じることができない。嵐は、背が向いている未来のほうへ、かれを否応なく押し進めていく。」(ヴァルター・ベンヤミン)

今日という日が昨日のためにあるのだとしたら。


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追記
この動画に含まれていない重要事件として他にイスラエル建国、マッカーシズム、公民権運動、アフガン戦争、第一次インティファーダ(ガザ地区蜂起事件)、天安門事件、ダルフール紛争、ロンドン暴動などが挙げられるだろう。

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鶴岡八幡宮と由比ヶ浜

去年の12月はじめごろ、鎌倉駅周辺を散策して回りました。一つの記事にまとめようとしたんですが、相当なボリュームになりそうだったので、スポット別に。まずは鶴岡八幡宮の紹介を。

二の鳥居と段葛

鎌倉駅から十分ほど歩くと、若宮大路のど真ん中に鶴岡八幡宮の二の鳥居と、鶴岡八幡宮境内まで伸びる道路より一段高くされた参道「段葛」が見える。三方を山に囲まれた峻厳な地形であった鎌倉が源頼朝によって整備されていく過程で、山が削られ、平地が増えた結果、若宮大路一帯は雨が降るたびに土砂や水が流れ込み、歩きにくい状態になることが多かった。そこで北条政子、北条時政らによって道より一段高い参道が作られたのが始まりである。防衛の観点から境内に近づくにつれて道が狭くなり、実際の距離より長く見えるようになっている。

境内入口


鶴岡八幡宮は一〇六三年、河内源氏の棟梁源頼義によって前九年の役戦勝祈願のため京都の石清水八幡宮を勧請して由比郷鶴岡(現在の材木座一丁目)に建てられた鶴岡若宮を前身とする。

一一八〇年八月、平氏追討の兵を挙げた源頼朝は伊豆を出て、相模、安房、武蔵などの源氏ゆかりの武士を次々と従え、同十月、鎌倉に入り大蔵御所を構えて拠点とすると、鶴岡若宮を現在地に移転、鶴岡八幡宮とした。一一九一年、火災による社殿の焼失を機に上宮下宮を整備して再度石清水八幡宮から勧請、鶴岡八幡宮を鎌倉の中心に据えた街づくりに着手する。鎌倉幕府の支配地域が広がり、武士の時代が到来すると鶴岡八幡宮を中心として八幡信仰が日本中に拡大、宇佐神宮、石清水八幡宮と並んで三大八幡宮の一つ(鶴岡八幡宮ではなく福岡の筥崎宮を入れる場合も)に数えられることになる。

舞殿


一一九三年に建てられた、奉納の舞など神事が行われる入り母屋作りの建物。下拝殿とも呼ばれる。建築前にこの場所にあった若宮廻廊で、捕えられた静御前が頼朝ら幕府重臣の前で「吉野山峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき 静や静しずのおだ巻きくり返し 昔を今になすよしもがな」との舞を奉納、その姿に感銘を受けた北条政子は頼朝に静御前の助命を請うたと伝わる。

大石段と本宮


大石段は本宮拝殿へと登る六十一段の石段。石段左手にはかつて樹齢八百年とも言われた御神木の大銀杏があったが、二〇一〇年三月、強風によって敢え無く倒壊した。今は再生可能な状態に剪定した樹幹部分が移植された親イチョウと、元あった場所から生えつつある複数の若芽の小イチョウとが保護されている。一二一九年一月二十九日、雪が積もり真っ白になったこの石段で三代将軍源実朝は待ち伏せていた兄頼家の子公暁により暗殺され、源氏将軍は途絶えた。

石段を上り、朱塗りの楼門をくぐると本宮。現在の本宮は一八二八年に徳川家斉によって再建されたものである。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。

そもそも八幡神のルーツを探っていくと大分県宇佐地方の豪族宇佐氏の神体山信仰に、新羅系渡来集団辛嶋氏の新羅国神(道教+仏教の融合神)があわさり、そこに大和から進出してきた三輪山信仰の大神神社系の一族大神氏が彼らを従属させ、大神氏が信奉する神功応神信仰が習合していくことで七世紀ごろに誕生していった神仏習合神で、それに山岳信仰があわさってより仏教色を強め、いわば諸勢力を糾合する神として存在感を強める。その後、当時の大和王権が九州に進出していく過程で朝廷と大隅・日向両国の隼人勢力との対立の間で軍事的な影響力を高め、武神となっていった。

このような背景から時の権力に強い影響を及ぼし、軍事だけでなく天皇の即位等政治に関しても積極的に介入しその権力に正統性を与えてきた。また、上記のような複雑な成立経緯を持つゆえに平安時代に仏教による鎮護国家体制の運営において神仏習合神として中心的な役割を担う役割を持っていた。例えば道鏡は八幡神の託宣を背景に皇位を狙い、またその失脚についても宇佐神宮の託宣が重要な影響を及ぼした。平将門は関東で新皇即位に際して八幡大菩薩の託宣に基づいて即位を行うという儀式を行っている。また京都の石清水八幡宮の勧請に際しても台頭しつつあった藤原氏の権力の後ろ盾として八幡神が機能している。八幡神の影響力を味方につけるために藤原氏が石清水八幡宮を建立したものだ(参考:逵 日出典著「八幡神と神仏習合」、本郷和人「武士から王へ」)。

このような八幡神の役割から、頼朝としては源氏の氏神であるという以上に、自身の権力の正統性を確立するという点で鶴岡八幡宮の建立は非常に重要であった。鶴岡八幡宮を中心として八幡宮神宮寺をはじめとしてさまざまな仏教寺院を建立し、京都をまねた鎮護国家体制を鎌倉に敷いていく。鶴岡八幡宮境内にも法華堂や仁王門などさまざまな仏教施設があったが、明治維新以降の廃仏毀釈、神仏分離の中で仏教施設は悉く破壊された。

一一九二年七月、この本宮で頼朝は正装して勅使を迎え、征夷大将軍に任命される。あるいは室町末期の一五六一年、長尾景虎はこの鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領に就任している。鶴岡八幡宮は権力の重要な源泉であり、それゆえに武士たちはそれを篤く信仰して広めていった。

若宮


鶴岡八幡宮の上下宮の下宮にあたる祭殿。一一九一年に整備された後、一六二四年、徳川秀忠によって造営された。それまでの若宮は荏柄天神社に移設されている。

丸山稲荷社


鶴岡八幡宮ができる以前からこの近隣にあったと伝わる稲荷神社。現在の社殿はかつて境内にあった源実朝を祀っていた柳営社を移築したもので一五〇〇年に建てられたものと伝わっている。

白旗神社

源頼朝と源実朝を祀った神社。元々は一二〇〇年、北条政子または源頼家が朝廷より白旗大明神号を賜り頼朝を祀るお堂として建立したと伝わるが、真偽は不明である。明治の合祀令の際に境内の柳営社と合祀され頼朝、実朝を祀る白旗神社となった。

よくわからない点として挙げておくと、その白旗大明神号で、明神号は室町時代に登場した吉田神道において使われる神号―例えば豊臣秀吉の豊国大明神など―であり、怨霊ではなく権力者を神として祀るというのは少なくとも十五〜六世紀ごろに登場する新しい信仰である(参考:末木文美士「日本宗教史」)。また白旗神社というと多くの場合祀られているのは義経である。そして白旗大明神という語の登場は個人的に調べた範囲で確認できるのは実は十八世紀の仙台藩医相原友直(一七〇三〜一七八二)の「平泉実記」だ。相原は義経を祀った白旗神社について触れたあと「鎌倉ノ白旗大明神ハ頼朝公ヲ祭レリ、頼家ノ創立ト云、義經ハ頼朝ヨリ先ニ死スルト雖トモ其白旗ト崇メシハ何レカサキナルコト未詳之」、意訳すると「鎌倉にも頼朝を祀った白旗大明神ってあるよ。頼家が創立らしいね。義経は頼朝より先に死んだけど白旗と崇められたのはどっちが先なのか謎ー」ということで、つまり謎。

また、豊臣秀吉にまつわるエピソードとして、小田原の役が終わった後、鶴岡八幡宮を参詣し白旗社に奉納されていた源頼朝像をポンポンと叩きながらこう語っているという。

凡日本広シト云共微賎ヨリ起テ天下一統ニ切敷四海ヲ掌ニ握レル者ハ吾分ト秀吉ノミナリ、去ナカラ吾辺ハ多田満仲ノ後胤ニテ王氏ヲ出テ遠カラス、其上先祖伊予守頼義陸奥守義家相継テ関東ノ守護タリ故、国侍ノ馴染モ多ク被官ノ筋目有シヲ以テ、流人ノ身成ト云共義兵ヲ挙ラルゝヤ否、旧キ好ミヲ追テ東国武士属従ヒ速成ノ大功ヲ建テラレタリ、我等ハ氏モ系図モナキ匹夫ヨリ出テ、ケ様ニ世上ヲ靡スナレハ、吾分ヨリ秀吉カ創業増タル事明白ナリ、去ハイツレニモ吾辺ト我等トハ天下友達ト云ツヘシ

「およそ日本広しと言えども小身から天下をひとつに切り従え四海握ったのはあなたとこの秀吉だけだ。しかし貴方は多田満仲の後胤で王族の出自から遠く無く、父祖の頼義、義家は東国の守護であり、国侍の馴染みも多く官位を得る筋目を有しており、故に流人の身から挙兵しても旧恩を感じる東国武士の多くが従い、素早く統一ができた。我は氏も系図もない元々は卑賤の出で、このように天下を平定したことは、あなたよりこの秀吉の創業が優れているのはあきらかである。とはいえ我らは天下友達であるというべきだろう。」

もしかしたら白旗大明神という号は秀吉とゆかりがあるのかもしれない。秀吉も豊国大明神号を死後追贈されているが、もともとは新八幡を名乗りたかったともいう。天下を取ってからの秀吉は何かと自身を頼朝に模していた。頼朝を神にまで高めることで、結果として自身をさらなる高みに引き上げる、そのような意図があったのかもしれない。

鶴岡八幡宮の、八幡信仰のもつ権力性がこのような時の権力者を引き寄せる引力を持つというエピソードのようにも感じる。

旗上弁財天社


鶴岡八幡宮内に多数あった仏教施設の一つだったが、明治の廃仏毀釈の一環で一度破壊され、一九八〇年に再建された。源平池に浮かぶ島に作られている。

源平池


北条政子が作らせたという池。

柳原神池


境内有数の紅葉スポットの一つ。蛍や鈴虫なども観察できるという。若干紅葉の季節より遅れていたため、枯れ気味ながら、まだまだ見ごたえがあった。

若宮大路

鶴岡八幡宮は二の鳥居からが境内ではなく、その先ずっと由比ヶ浜まで参道が続いている。もともとは段葛も残っていたが再開発の段階で二の鳥居から先は取り壊されてしまっている。写真は鎌倉市体育館付近の交差点歩道橋から鶴岡八幡宮方面。

一の鳥居

こちらは若宮大路を由比ヶ浜方向に向かったとき。目の前の鳥居が一の鳥居。

由比ヶ浜


本当は朝一で鶴岡八幡宮に行き、周辺を散々散策して最後に行ったのが由比ヶ浜だったので、このように夕暮れ時であった。

津波情報地図


滑川河口


鎌倉市街を流れる滑川の河口。滑川の向こうは材木座海岸。実はこの河口周辺は閻魔川とも通称される(参考:赤坂憲雄「境界の発生」P26-27)。古くは葬送と交易の地であった。一の鳥居近くには人骨が多く出土している骨塚などもあり、近隣の寺院極楽寺がこの一帯の葬送と交易の支配権を握っていたという。古代から中世の庶民の葬送はそのほとんどが風葬または遺棄葬で、賽の河原という言葉の通り死ねば河原に捨てられるのが常であった。鎌倉の場合はこの由比ヶ浜が賽の河原のかわりであった(参考:松尾剛次著「葬式仏教の誕生」P46)。庶民が墓に埋められるのは近世のことにすぎない。



だが、そのような記憶も今は昔。歴史と人びとの生と死を洗い流して、今は人気の海水浴場として、地域の人の憩いの場として、由比ヶ浜は今に至っている。



関東に住む者として、鎌倉と江戸と東京とが互いにせめぎ合い、結ばれ合い、幾重にも張りつめ、絡み合うその上に生きているという感覚を強く持っていたのでいちど鎌倉は訪れておきたかった。それゆえに鶴岡八幡宮を始め周辺の歴史的スポットを巡って当時に思いを馳せることができたのは幸福であるとともに、背筋が伸びる思いだった。

夕日が本当に綺麗で、極楽浄土というのはあの先にあるのだろうという思いを当時の人々も抱いていたのだろうと思わずにいられなかった。祈りの先にあるものもまた・・・新年はこの記事とともに始めたいと思います。あけましておめでとうございます。

参考サイト
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮 - Wikipedia
鶴岡八幡宮〜鎌倉〜
鶴岡八幡宮
源頼朝 - Wikipedia
段葛 - Wikipedia
段葛(だんかずら)
鎌倉 - Wikipedia
平泉雑記 巻之五
相原友直小伝
豊臣秀吉 - Wikipedia
okadoのブログ: 頼朝に天下を語った豊臣秀吉〜白旗神社〜

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鬼(オニ)へのインタビュー

日本には古来から「鬼(オニ)」と呼ばれる存在があった。あらゆるものに「霊魂」が宿ると考えるアニミズム的観念を前提とし、「霊魂」は人間と同様に喜怒哀楽の感情を持ち、その感情は天変地異様々なかたちで周囲に影響を及ぼす、と考えられた。荒ぶる好ましからざる状態にある霊魂は「荒魂(あらたま)」と呼ばれて恐れられ、それを鎮め、穏やかな好ましい状態に置く一連の手法を「祭祀」と呼ぶ。「祭祀」を通じて「荒魂」は「和魂(にぎたま)」へと変わる。そのような「祭祀」されない「荒魂」状態にある霊的存在を古代の人々は「鬼(オニ)」と呼んで畏れ、やがて「鬼(オニ)」には良く知られるような異形の姿かたちが与えられていく。それは人々にとって秩序の外に置かれるべき、あるいはうち滅ぼすべき者たちとして存在した。

馬場あき子「鬼の研究 (ちくま文庫)」(P14)によると、鬼の系譜は神道系、修験道系、仏教系の鬼とともに「放逐者、賤民、盗賊など(略)それぞれの人生経験の後にみずから鬼となった者」たちである人鬼系、「怨恨・憤怒・雪辱」など「その情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となることを選んだもの」たちである変身譚系の五つに分類されるという。いわば排除され生きることがすなわち鬼となることであった者たちと、特定の人々に対してあるいは社会や体制などに対する負の情念の果てに鬼になることを主体的に選んだ者たちであろう。

後者二つの、鬼とならざるを得なかった人々、あるいは鬼となることを選んだ人々に対する一種の親近感と興味はいつのころからか、僕の中にふつふつと湧いてきてどうにも押し止めようの無い域に達しつつある。それは鬼の伝承そのものに対す興味というよりは、近現代の社会秩序の埒外にあることを選んだ人々への興味である。鬼はいかにして鬼となったか、そのプロセスを明らかにしたいという興味である。

その興味の湧く源泉には僕の心の中の境界線上を漂う危うさへの怖れがある。ふと気が付いた時、僕はただ生きているだけで社会との関係性において鬼として生きることを余儀なくされるのではないか、あるいはこの僕の中の得体のしれない情念が鬼として生きることを知らず知らず選ぶようになるのではないか、という怖れだ。いわゆる「沈黙のヴェール」を通して内と外とを眺めたときに、その怖れは今そこにある現実としてうつる。

小松和彦編著「妖怪学の基礎知識 (角川選書)」P24
完全な鬼になれば、もはやその姿かたちからはそのもとの姿を推し量ることはできない。道具から生まれた鬼に限らず、鬼とはそういうものであって、鬼の一人ひとりに、鬼になるまでの来歴を聞かなければ、もとは人間の死霊であったのか、生霊であったのか、動物の怨霊であったのか、といったことがわからないのである。

ここ一〜二年、そのような「鬼になるまでの来歴」を探る鬼へのインタビューにどこかアンバランスなまでに囚われており、その鬼へのインタビューとしての記事をブログに良くアップしていた。年末ということで、少し振り返っておこうと思う。

・「裸で笑顔で生涯全国行脚し続けた男、及川裸観(ラカン)

2009年と古い記事でほとんど誰の興味を惹くことも無かった記事だが、確かにこれは僕の中である種の始まりではあった。両親が相当心酔していたらしく、僕も彼の育児法に習って育てられていたということで、他人事ではなかった。

・「イスラム原理主義思想の父サイード・クトゥブの生涯

今なら僕は「イスラム原理主義」という言葉を使うことは無いだろうが、いわゆるウサマ・ビン・ラーディンらへと繋がるサラフィー主義あるいは戦闘的イスラーム主義などと呼ばれる思想の始まりに位置する思想家の過酷な生涯についてまとめた記事。

・「進化論教育は罪か?スコープス裁判と原理主義が変えたアメリカ

未だに続く進化論問題、つまりキリスト教のファンダメンタリズム(原理主義あるいは根本主義)とリベラリズムとの対立の原点に位置する裁判の経緯について。原理主義が「原理主義」として怖れ忌まれることになるその始まりについて簡単に書いた。

・「「永遠に差別を!」米国を分断した政治家ジョージ・ウォレスの生涯

ポピュリズムというのは現代においても非常に重要な問題となりつつあると思うが、六〇年代の米国を席巻した一人の政治家の生涯を通して民意とかポピュリズムとかを眺めるきっかけに出来ないかなと思いまとめた記事。この人の生き様はすごく印象的だった。

・「拍手が変えた日本の歴史〜道鏡を滅ぼした憎悪の正体

何分古代のことでもあり、いくつかの本、特に高取正男「神道の成立」の記述にほぼ依っているのだが、道鏡を失脚させた当時の政治的背景にある排除のメカニズムとそこから脈々とつながってくるかもしれない歴史の流れに思いを馳せた。

・「王殺し、偽王(モック・キング)の戴冠と死

人物に対するインタビュー、というよりはいわゆる文化人類学的な王殺しのメカニズムについてまとめた記事なのでちょっとずれるのではあるが、現代の「鬼」を考えるとき、この原初的なメカニズムが形を変えつつ今も存在しているような錯覚は覚える。
あわせて「村社会の宿業「子殺し」が生んだ妖怪「座敷わらし」」、「他者排斥を生む原始的な世界観の誕生プロセス

・第一部「はぁいそれじゃ自己紹介いってみよう」 「あ、あの、ウ、ウサマ…ビン・ラーディンです…その、ええと…どうか、よろしく、お願いします…」
・第二部「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、アラブ世界って、そういう仕組みだったんだね・・・」
・第三部「アラブの人々の祈りを、絶望で終わらせたりしない」

人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」のプロットを借りつつウサマ・ビン・ラーディンの生涯についてまとめた。特に「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない」という名台詞はまさしくテロリズムが生み出される最大の要因であるところの「利他主義」の持つ二面性に通じると思う。同アニメ最強の魔女「ワルプルギスの夜」誕生をどこか思い描きつつ。もちろん現実はアニメのように美しくも、ロマンティックでも、ヒロイックでもなく、またそのように書いたつもりもない。ウサマ・ビン・ラーディンはいかにして憎悪に基づく二項対立的な思想を生み出したのか。そしてその思想の憎しみの増幅装置とでもいうべき構造故に鬼を生み続ける要因となるウサマ的思想を一人歩きさせない、人びとの内に自己犠牲の炎を燃やさせないことが悲劇を抑止することに繋がるということだと思う。その困難さに途方に暮れるのではあるが。最後に書いているように我々一人一人が誰かの希望になる、という世界をいかに展望できるかをこれから考えていかなければならないという趣旨でまとめたつもりではある。あわせて→「「テロリスト」の4つの特徴と「テロリズム」を生むもの

・「米国保守派の中核「ニューライト」を生んだ4人の保守主義者

七〇年代の米国で始まった保守革命のように新しい保守主義の台頭はいわゆる福祉国家に行き詰まりはじめた先進諸国全体でみられる現象で、それは同時期の社会構造の変化が大きく影響しているのだけどそれはまた別の機会に書くとして、レーガン政権に始まる共和党保守政権を作り米国だけでなく世界中で憎まれ、敵意を燃やされるニューライトという政治勢力を作った四人の人物について。

・「ジーザス・キャンプ 〜アメリカを動かすキリスト教原理主義〜

米国だけでなく世界中で忌み嫌われる宗教右派について、同名の映画からその背景や成り立ちなどを簡単にまとめている。その運動全体として他者に対する憎しみや敵意を生み出している物が、一人一人の純粋な祈りであるという構造は本当に語るべき言葉がみつからないのだけど。

・「豚が日本を救う?明治四年の教育ベンチャー「布田郷学校」

まぁ、これは箸休め的なニュアンスで書いた記事ではあるのだが、明治初期、今の東京都調布市付近にあった無償教育を前提とした初等学校を作った人々について。ある種の狂気こそが人を動かし、社会を変えたというお話。

こうしてみるとまだまだ非常に偏っているし数も少ないが、もっといろいろなかたちの「鬼」について見つめていきたいと思う。それは文字通り自分自身を見つめる作業でもあり、とても個人的な心象風景をまとめているに過ぎないとも言える。どこかで僕がもとめている物語を構築しているという風な。とはいえ公開するからには事実というものをしっかりと見つめていかなければならない。そのような自分を取り巻く厳然たる事実と自分が求める茫洋たる物語の狭間で折り合いをつけていくことこそが、たぶん「生きる」ということなのだろうと思う。そのような意味でただのライフログでしかなく、更新頻度も非常に遅いブログですが来年もどうぞよしなに。

来年も鬼を、魔を、排除された者たちを、禍々しいものたちの人なる姿を見つめていければと願います。

「形は鬼なれども、心は人なるがゆえに、身に力をさのみ持たずして立ち振舞えば、はたらき細やかに砕くるなり。」(世阿弥が語る鬼の能の演じ方)


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近代の序章としての三十年戦争 第三部「ヴェストファーレン条約とその後」

第一部→「近代の序章としての三十年戦争 第一部「ボヘミア反乱〜デンマーク戦争」
第二部→「近代の序章としての三十年戦争 第二部「スウェーデン戦争」

第五章 フランス戦争

1)オクセンシェルナのスウェーデン復活戦略

ネルトリンゲン会戦とそれに続く相次ぐ敗戦、そして「プラハ条約」によってプロテスタント諸侯がこぞって皇帝に臣従した結果、スウェーデン軍は完全に孤立無援の状態になった。今やスウェーデンに味方しているプロテスタント諸侯はヘッセン・カッセル方伯、ブラウンシュバイク公、そして元プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の遺児のみであった。だが、まだ撤退していない。

宰相オクセンシェルナにとってこの状況下でスウェーデンを復活させる要点は"いかにしてフランスを三十年戦争に直接参戦させるか"である。フランスを参戦させることで、スウェーデン軍を再編成し、再び対抗しうる力を確保し、勢力を拮抗させる。だが、フランスはあくまで対スペインにその軍事力を向け、ドイツに対しては直接介入はしないという戦略である。このリシュリューの大方針をいかにして転換させるかが最大の課題であった。しかし、フランスにはスウェーデンを見捨てられない理由があった。ネーデルラント(オランダ)である。

当時のオランダはスペインに対する独立戦争の真っ只中にあり、一五六八年以来すでに七〇年近く戦い続けていた。この超長期間にわたる戦争継続のための資金は、直接的には借入金だが、それを常時返済し続けることを可能にしていたのが武器貿易であった。特に一六二〇年代以降、オランダが輸出する武器を製造するための鉄や銅のほとんどがスウェーデンからバルト海経由でアムステルダムに運ばれて加工され、諸外国に輸出されていた。その輸出品最大の輸入先がフランスであった。「一六二七年から一六四一年にかけて、リシュリューは、銅・硝石・火薬・弾丸・マスケット銃・大砲をアムステルダムで購入したのである」(注1)

スウェーデンの失墜によるバルト海制海権の喪失はそのままオランダの弱体化を招き、オランダの弱体化はスペイン・ハプスブルク家の伸張だけでなくフランスの弱体化に繋がる、という国家間で相互に連関する世界システムの萌芽がすでに芽生えていた。

このような一蓮托生の関係を背景に、オクセンシェルナとリシュリューの間でフランス参戦をめぐる駆け引きがなされ、一六三五年四月三十日、「ベールヴェルデ条約」が更新され、フランスの参戦が決定される。

2)リシュリューの対ハプスブルク戦略

フランスから見ると、西のスペイン本国、北東のスペイン領ネーデルラント、そしてスペイン領ネーデルラントから北イタリアまでのライン川沿岸に連なる親ハプスブルク家諸侯とオーストリア・ハプスブルク家が皇帝位にある神聖ローマ帝国、その奥のオーストリア・ハプスブルク世襲領によって、完全に包囲されている状況にあり、特にライン川沿岸のハプスブルク勢力の大動脈、通称スペインロードはスペインハプスブルク家、スペイン領ネーデルラント、オーストリア・ハプスブルク家をつなぐ補給線の役割を担っており非常に脅威であった。

そのスペインロードを分断し、機能させないためには神聖ローマ帝国の混乱と、皇帝権力の低下が望ましい。オーストリアとスペインを分断することでフランスはスペイン・ハプスブルク家のみに向かい合うことが可能になり、ひいてはブルボン家がハプスブルク家に変わり全欧州の覇権を握ることに繋がる。その大方針の下にこれまでフランスの対ドイツ戦略は練られてきた。つまり直接介入はあくまで対スペイン・ハプスブルクであって、神聖ローマ帝国に対しては非軍事的手段によるものとする。一方で、カトリック国であるフランスにとってプロテスタント勢力の著しい伸張も望むところではない。スウェーデン王国と神聖ローマ帝国は最終的にともに軍事的影響力を弱めることが望ましい。

このような基本戦略を前提として、リシュリューはひそかにスウェーデンと神聖ローマ帝国との戦争を横目にライン川左岸スペインロードの分断作戦を展開していた。宣戦布告無し、あくまで威嚇目的でフランス軍を動かし、ロートリンゲン、選帝侯トーリア大司教領、選帝侯ケルン大司教領、アルザス地域などに影響力を確保、トーリア大司教領を保護下に置いている。

そのような中、軍事バランスが崩れ、フェルディナント二世が権力を集中させ、後背の一大脅威となりつつある。スウェーデンが弱過ぎるのも困るのである。そこでリシュリューはオクセンシェルナの提案に乗り直接参戦を決めた。但し、宣戦布告をするのは神聖ローマ帝国に対してではなく、スペインにである。スペインがトーリア大司教領を不当に占拠しているとしてスペインに宣戦布告し、しかし軍は神聖ローマ帝国に侵攻するというわけだ。あくまで敵はスペインであって神聖ローマ帝国ではないという論理である。さらに、オランダとも軍事同盟を結び、スペイン領ネーデルラントに侵攻する。スペイン領ネーデルラント総督フェルナンドの援軍が皇帝軍の大きな力になっていたので、それを分断するという戦略であった。

かくして、三十年戦争はフランスの参戦によって全ヨーロッパを巻き込む大戦へと発展していった。

3)スウェーデンの反撃とフェルディナント二世の死

フランスの参戦によって、スウェーデン軍は立て直す余裕ができ、パネル将軍が総司令官に就き、レナート・トルステンソン将軍がこれを支える体制に移行していた。一六三六年十月四日、スウェーデンの最終防衛ラインとなるエルベ川河畔ヴィットシュトックで皇帝=ザクセン連合軍を迎え撃ち、撃退に成功する(ヴィットシュトックの戦い)。辛勝ではあったがひたすら負け続きであったスウェーデン軍にとってはターニングポイントとなる勝利であった。この勝利を受けてオクセンシェルナはスウェーデン本国に帰り、前線をパネル、トルステンソンとフランス軍に任せ、後方支援に専念する体制が構築。ついに反撃の準備が整う。

スウェーデン軍の反撃を受けながらも現状ではフェルディナント二世の絶対王政の体制は揺るがない。一六三六年十二月二十二日、選帝侯会議において、フェルディナント二世の嫡子フェルディナントのローマ王選出が決議され、オーストリア・ハプスブルク家による帝位世襲が確実なものとなる。年が明けた一六三七年二月八日、ついにフェルディナント二世が崩御する。三十年戦争を引き起こし、数多の危機を乗り越えて君臨し続けた強運の絶対君主は五九歳でこの世を去った。

早速嫡子ローマ王フェルディナントが新皇帝に即位しフェルディナント三世となる。皇帝軍総司令官は新皇帝の弟レオポルド大公が選ばれた。ティリー伯、ヴァレンシュタイン、その二人よりは落ちるものの新皇帝フェルディナント三世ら歴代の司令官と比較すると著しく見劣りする人事であり、やがてプロテスタント軍の盛り返しにより次第に劣勢に立たされて行くことになる。

4)対ハプスブルク同盟の快進撃

この時期、対ハプスブルク戦争においてスウェーデン軍、フランス軍、オランダ軍はいずれも優勢に立ち始める。

一六三七年十月十日、オランダ軍はフランス軍の支援を受けオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの指揮の下、最重要拠点ブレダ要塞の攻略に成功する(注2)。オランダ独立を決定付けスペイン斜陽の始まりを意味する画期的な勝利であった。一六三九年十月二十一日には、ダウンズの海戦でオランダ海軍がスペイン海軍を撃破、スペイン海軍は七七隻中七〇隻を失う大敗を喫し、制海権を失う。

リシュリューはベルンハルトを引き抜いてフランス軍の傭兵隊長とすると、一六三八年二月、ベルンハルト軍がラインフェルデで皇帝軍を撃破。続いてフランス軍が誇る名将テュレンヌ元帥の精鋭部隊を派遣しベルンハルト軍とともにライン川地域最重要拠点ブライザッハを包囲させる。ブライザッハを攻略すればスペイン領ネーデルラントと北イタリアを繋ぐスペインロードを完全に分断できる。それだけではない、ここは帝都ウィーン攻略の最前線基地としても機能する。一六三八年十二月十七日、皇帝軍の激しい抵抗を退け、これを陥落させた。

スウェーデン軍は同時期、トルステンソン将軍指揮の下、ボンメルン一帯を着実に攻略してその影響下に治め、フランス軍と連携して戦線を急拡大させていた。一六三九年四月十四日、スウェーデン軍はザクセン領南部ケムニッツでザクセン軍を撃破。その勢いのままパネル将軍がボヘミアへと侵攻する。

一六四〇年、スペイン領カタロニアの反乱に続き、三十年戦争やオランダ独立戦争を始めたびたび対外戦争に駆り出されていたポルトガルで市民の怒りが爆発、ついに独立戦争(ポルトガル王政復古戦争)を起こす。リシュリューが好機と反乱軍を支援。北でオランダ独立戦争、東からフランス軍の侵攻、西でポルトガル独立戦争と、もはやスペインはドイツへの介入どころではなくなっていた。

問題がなかったわけではない。一六三九年にフランスの傭兵隊長ベルンハルトが、一六四一年にスウェーデン総司令官であったパネル将軍がそれぞれ野心に駆られて独立の動きを見せるが両者とも早いうちに相次いで病没し大きな動きにはならなかった。

一六四〇年、三十年戦争の間ひたすら無力であり続けた選帝侯ブランデンブルク辺境伯ゲオルグ・ヴィルヘルムが死去。嫡子フリードリヒ・ヴィルヘルムが新選帝侯となると、同家の方針をこれまでの日和見なスタンスから一変させる。若干二十歳の新選帝侯はプラハ条約の破棄を公言しプロテスタント諸侯軍とも皇帝軍とも距離を保ちつつ第三勢力として独立外交を展開、新皇帝に圧力をかけ始める。一六四一年、ブランデンブルク選帝侯領とスウェーデンは休戦条約を締結。後のプロイセン王国の基礎を築く大選帝侯の登場は三十年戦争の趨勢に大きく影響を与えることになる。

一六四一年十一月九日、一気に凋落するスペイン軍にあって一人奮闘していたスペイン領ネーデルラント総督フェルナンドが病没。この後任人事を巡ってスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家で対立することとなり、両者に大きな亀裂が生まれる。

一六四二年、パネル将軍の後任としてスウェーデン軍新司令官となったトルステンソン将軍はモラヴィア一帯の拠点を次々攻略して一帯を制圧。ザクセン軍を撃破してライプツィヒを占領する。これに対して十一月二日、レオポルド大公率いる皇帝軍がブライテンフェルトにてスウェーデン軍に攻撃を加える。だが、トルステンソン将軍の巧みな戦術によって皇帝軍は死者五千もの損害を出して敗走した(第二次ブライテンフェルト会戦)。

一六四二年十二月十四日、三十年戦争を思うが侭に操ったフランスの枢機卿リシュリューが病死する。おそらく当時唯一ヨーロッパ全体を見渡して戦略を立てることができた人物であった。その後をマザランが継ぐ。その死は確かに大きく、フランス国内に少なからぬ影響を及ぼしたが、マザランもまたリシュリューに劣らぬ戦略家であり、三十年戦争の趨勢は動かなかった。

一六四三年五月十八日、起死回生を狙ってフランスに侵攻したスペイン軍二万七千を若干二十二歳のフランス軍総司令官コンデ公ルイ二世率いるフランス軍二万三千が迎え撃つ。その才能を見出し若くして総司令官に任命していたのは故リシュリューであった。スペイン軍は戦死者一万五千もの大敗を喫し、壊滅する。スペイン王国の凋落が確定した戦いであった。

5)トルステンソン戦争

一六四三年春、長らく沈黙を守っていたデンマーク王クリスチャン四世が、再起を図るべく神聖ローマ帝国と結びスウェーデンに宣戦布告、後背を脅かす。だがトルステンソンはその蠢動を一切無視して帝国領内から動かない。やがてクリスチャン四世もスウェーデン軍は攻めてくる気がないと判断し、油断して迎え撃つ備えを怠りはじめる。だが、トルステンソンは敵の油断を待っていた。神速でユトランド半島に取って返すや一気にデンマーク領に侵攻、次々と制圧していく。あまりの神速に後世、古代の名将の名を取ってハンニバル戦争とも呼ばれた。

一六四四年一月、トルステンソン軍によってデンマークが窮地に陥ったのに焦った皇帝フェルディナント三世はレオポルド大公率いる皇帝軍を、トルステンソン軍が侵攻するシューレスヴィヒ=ホルシュタイン公国に差し向けるが大敗、レオポルド大公は責任を取って皇帝軍総司令官の職を辞することになる。

だが、ユトランド半島を失ってもデンマーク王はまだ動じない。デンマークの首都はスカンジナビア半島東端シェラン島にあり、スウェーデンより勝る海軍力で防衛線を構成していた。そこでトルステンソンはオランダ海軍に援軍を要請、スウェーデン・オランダ連合軍とデンマーク軍との艦隊戦が展開される。クリスチャン四世自ら艦隊を指揮し一進一退の攻防となるが、一六四四年九月、キール湾近郊、フェーマルン島とロラン島の間の海域で行われた海戦によってデンマーク海軍が全滅。翌一六四五年二月、フランス、オランダの仲介によりスウェーデン=デンマーク間で「プロムセブルー条約」が締結され、大規模な領土割譲などを含むデンマークの完全降伏とスウェーデンのバルト海覇権が確定した(注3)(注4)。

6)三十年戦争の終結

一六四五年二月、トルステンソン軍がついにボヘミア王国に侵攻する。当時皇帝フェルディナント三世もボヘミア王国首都プラハにあった。二月二十四日、プラハ南南東五十キロの地点でスウェーデン軍と皇帝軍の戦闘となるが、もはや皇帝軍にスウェーデン軍に対抗するだけの力も残っておらず、大敗する。フェルディナント三世はわずかの近習を連れてウィーンへ逃亡し、その無様な様子は今は亡き「ボヘミア冬王」こと元プファルツ選帝侯フリードリヒ五世を彷彿とさせ、「フリードリヒの逃亡」と揶揄(注5)された。父帝が築き上げた「絶対君主としての皇帝」は幻想となった。

一六四五年七月、皇帝側でほぼ孤軍奮闘していたバイエルン公マクシミリアン一世は一度はフランスのテュレンヌ軍を退ける快挙を成し遂げるものの、七月二十四日、コンデ公率いるフランス軍本軍とテュレンヌ軍の合同軍の前に敗北する(第二次ネルトリンゲンの戦い)。フランスとよりを戻し講和しつつ、しかし決定的な損害ではなかったためまだまだあきらめない。翌四六年スウェーデン軍の侵攻の前に焦土戦術を取って徹底抗戦し長期に渡って戦い続ける。しかし、四七年三月、ついに力尽きスウェーデンに休戦を申し出る(注6)。バイエルン公は家臣の故・ティリー伯以上の不屈さを見せつけたことで、「カトリック・ドイツの守り主バイエルン」として、敵味方問わず一目も二目も置かれることになった。

一六四五年八月、節操無く寝返りを繰り返して今は皇帝側についていたザクセン公ヨハン・ゲオルグは、皇帝の逃亡、バイエルン公の敗北などによって、気がつくと孤立していた。だが、いまさらどの面下げて一度裏切ったスウェーデン軍に付くことができようか。しかし、だからといって戦い抜く力も覚悟もあるわけでもない。逡巡するなか、一族からもスウェーデン軍と講和するよう突き上げられ、ついに休戦協定を結んだ。

三十年戦争最後の会戦は、一六四八年七月、ドナウ川沿いの小村ツスマルスハウゼンで起きた。バイエルン公の配下であったヴェルト将軍の一隊が主君の休戦の方針を不服として、これに逆らう形でバイエルン軍を脱走、ほぼ壊滅状態になっていた皇帝軍に合流する。バイエルン軍はよほど不屈・勇武の気風なのだろう。あわせてテュレンヌ配下に組み込まれていた旧ベルンハルト兵もそれに呼応して皇帝軍に合流。フランス・スウェーデン連合軍に決戦を挑むが、一矢報いること叶わず敗北する(ツスマルスハウゼンの戦い)。同時期、スペイン軍はフランスのランスでコンデ公率いるフランス軍に大敗(ランスの戦い)し、スウェーデン軍のケーニヒスマルク将軍率いる別働隊がボヘミアのプラハを包囲していた。ツスマルスハウゼンの戦いで勝利したフランス・スウェーデン連合軍はついに帝都ウィーンに向けて進撃の準備を整えていた・・・

神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント三世は和平を乞うた。


第六章 ヴェストファーレン条約

三十年戦争終結に向けた和平の試みは一六四〇年ごろから始まっていたが当初はプラハ条約に固執する皇帝と諸勢力との溝が埋まらず進展しなかった。一六四二年春、マインツ大司教は筆頭選帝侯だけが持つ特権として有事の際に皇帝の許可無く会議を招集できる権限を行使しフランクフルトにて代表者会議を招集、同年五月二十五日にヴェストファーレン候国のオスナブリュックとミュンスターでそれぞれ対スウェーデン、対フランスの講和会議を開く旨決議を行ったが、会議が始まったのは二年あまり遅れた一六四四年十二月四日であった。

同国際会議にはイギリス、ポーランド、ロシア、トルコを除く全欧州六十六カ国の代表百四十八人が集まったが戦局に左右されつつ遅遅として進まない。その間、戦局は著しく変化してハプスブルク・カトリック勢力の一方的敗北に終わり、会議の開始から四年経った一六四八年十月二十四日、ついにオスナブリュック条約とミュンスター条約の二条約からなるヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)が締結された。

1)ヴェストファーレン条約の主な決定事項


■宗教規定
・一五五五年の「アウグスブルクの宗教和議」にカルヴァン派が新たに追加。事実上領主と領民が違う宗教を信仰することが黙認された。

■憲法規定
・皇帝の立法、戦争、同盟、条約等の権限は制限され帝国議会の議決に拘束される。
・帝国内の全諸侯は主権と外交権を認められる。

■政治的規定
・フランスはアルザス地方、ロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダン各司教領を獲得。
・スウェーデンは賠償金五百万帝国ターラーと、前ボンメルン(シュテッティン、リューゲン、オーデル川、ヴェーゼル川河口を含む)、ヴィスマル市、ブレーメン公位、ヴェルデン司教領を獲得。同時に帝国議会の議席と投票権を獲得。
・バイエルン公の選帝侯位の保障、上プファルツを獲得。
・元プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の子カール・ルートヴィヒを新たに選帝侯に任じ、下プファルツを与える。但しプファルツとバイエルン統合の際はこの選帝侯位は消滅する。
・ザクセン公はラウジッツ川流域の領有権を獲得。
・ブランデンブルク辺境伯は後ボンメルン領、ハルバーシュタット、カミン、ミンデン各司教領を獲得。
・スイスとオランダの独立承認。(注7)(注8)

2)スウェーデン女王クリスティナの寛大な譲歩

ヴェストファーレン条約の方向性を決定付けたのは最大の戦勝国スウェーデンの若き女王クリスティナであった。一六三二年、父グスタフ二世の死によって六歳で即位したクリスティナは成人した一六四四年から親政を開始。講和会議に際してスウェーデン使節に「私の全願望はキリスト教諸国民に平和をもたらすことにある」と述べた(注9)。敬虔なキリスト教徒として、父王が目指した全欧州をスウェーデンの影響下に治める古ゴート主義より、欧州全体の恒久的平和の確立を重視し、寛大な譲歩を行うことを決定する。帝国領内におけるプロテスタントの信仰の自由の確保などと引き換えに領土などに関して国内で不満が出るほどの譲歩を行った。

女王は単に戦争を終わらせるだけではなく、戦争そのものの原因の除去につとめた。宗教対立がそれぞれの宗派のドグマ化に拍車をかけ、全てを敵か味方かで判別する精神的狭量に人々を追い込む。この精神的狭量が政治力学に絡んで、それぞれの普遍主義が現実世界のなかに持ち込まれ、正戦が始まる。正戦は非寛容的殲滅思想に染まっている。女王は寛容な譲歩を示すことで、この正戦の意味を根底から奪い去ろうとしたのだ。正戦、すなわち無差別な殲滅戦などあってはならないのだ、と。女王クリスチナは正戦を生み出す信条の「非寛容主義を憎んだ。天才的な早熟の知性と強い自己意識がこれに激しく抵抗したのである」。(注10)

また歴史家のウェッジウッドはクリスティナ女王についてこう評す。

「名ばかりの人ではないにしろ、媚びへつらいに甘く、騙されやすかったが、強情でかつ知性をもった若人だった。あの高名な父の娘として、彼女は状況に対処する勇気を持ち、(彼女の老臣たちより)もっと大胆に、あっさりと、父の政策のセンチメンタルな墨守を放棄することができた」(注11)

3)ウェストファリア・システムの誕生

かくしてひとつの正義を奉じて互いに消耗戦に陥る中世的な殲滅戦争の時代が終わりを告げ、国家間相互に各々の秩序・正義を尊重しつつ限られたパイを奪い合う限定戦争の時代に移行する。国家がそれぞれ主権を認められ、ヨーロッパ全体の秩序と安定のために共通の伝統であった自然法思想とローマ法に基づいた国際法が形成されていくことになる。その秩序「ウェストファリア・システム」の主体となるのが主権国家である。唯一の主体として認められた国家の中に乱立していた多様な諸権力はやがて王というひとつの権力へと集中していく。絶対主義の時代の到来である。主権の概念はやがて王すら超え、「公共」へと昇華されたそのとき国民国家が誕生した。ウェストファリア・システムの極北、国民国家は、国家を人の上位に置くことで、人々に祖国のため喜んで命を捨てさせることになる。二十世紀初頭、限定戦争の時代は終わりを告げ、再び殲滅戦争の時代に突入する・・・あまりにも巨大な殲滅戦争を人類は経験した。

三十年戦争の悲劇は一人の女王の理想によってかりそめの平和と秩序をもたらしたが、他方、その理想が生んだ秩序の帰結としてより巨大な悲劇を生み出していった。三十年戦争後の世界がそうであったように、現代は二度の世界大戦の反省の上にウェストファリア・システムを基礎としつつ成り立っている。その近現代をかたちづくってきたウェストファリア・システムは第二次大戦後、一九七〇年代を境にしてグローバリゼーションの渦の中で福祉国家の行き詰まりとともに急速に融解していく。国際秩序は国家だけでなく、再びさまざまな主体が担うことになりつつある。諸権力がひとつの権力に、ひとつの権力が再び諸権力に・・・神話が終わろうとする、その転換期に我々は立っている。


終章

神聖ローマ帝国は完全に実体を失い、諸領邦国家のゆるやかな連合へと解体。「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」(注12)とは一八世紀の作家ヴォルテールの言だが、三十年戦争が終結したまさにこのとき、帝国ですらなくなった。一八〇六年、ナポレオンの侵略によって消滅する。

スウェーデンは寛大な譲歩を行ったが、それでも押さえるべき点は押さえてバルト海一帯を完全に支配下におき、スウェーデン・バルト帝国として北方に覇を唱える。その成功を生み出した名宰相アクセル・オクセンシェルナはしかし不遇であった。彼はグスタフ二世王のヨーロッパ制覇という壮大な夢に殉じる覚悟だったからだ。クリスティナ女王の寛大な譲歩はそれに対する裏切りであると見えた。女王に激しく抵抗するが、女王の信念は変わらない。時代を作る原動力となった男は気がつくと時代に取り残されていた。条約締結後、政界を退き失意の晩年を送る。一方、クリスティナ女王はあまりにも聡明すぎた。その聡明さはやがて王という自身の地位との避けられない乖離を生む。一六五五年、彼女はカトリックへの改宗と退位を宣言。後半生を学問と信仰に生きた。「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである」(注11)とはヴォルテールのクリスティナ女王評である。その後を継いだカール十世の時代にスウェーデンは全盛期を迎える。

フランスは同条約によってライン川一帯を完全に支配下に置き、ハプスブルク家に対して圧倒的な優位を確立する。スペインとの戦争は引き続き継続され一六五九年ピレネー条約の締結によって勝利をおさめ西ヨーロッパの覇権を確立する。リシュリューが望んだもののすべては得られなかったが、この稀代の戦略家の描いた絵によってブルボン朝はルイ十四世の時代に絶対主義体制を確立、全盛期を迎えることになる。だが、ウェストファリア・システムに最も対応出来たがゆえに、その絶対主義体制は革命を招来する。フランス革命は国民国家を生み、ナポレオンが全ヨーロッパを席巻し、そして「近代」が創造される。

オランダ。もし真にこの時代の勝者を規定するならば、この新興の小さな独立国がそうであっただろう。様々な戦争にオランダ商人は死の商人として深く関与し、武器貿易によって莫大な利益を得た。バルト海から大西洋へと抜ける海上交通を支配し、中継貿易を通じて全ヨーロッパをその影響下に収め、アジア交易も独占することでオランダ海上帝国として君臨した。その実体はスウェーデン産の鉱物、穀物、さらに同国のバルト海制海権に支えられていたため「オランダ=スウェーデン複合体」(注13)と呼ばれる。一八世紀初頭の大北方戦争によってバルト海の覇権がスウェーデンからロシアに取って代わられ、一八世紀末、英蘭戦争に破れて大西洋の制海権を失い、海外領土の多くを失って没落する(注14)。

オーストリア・ハプスブルク家はしばらく低迷するが、一七世紀後半、オーストリアのハプスブルク世襲領に注力することで持ち直し、一八世紀末のオーストリア女大公マリア・テレジアの時代に絶対君主国家として勢力を盛り返す。ナポレオン戦争後に再び失墜するが一八六七年オーストリア=ハンガリー帝国として再興され第一次世界大戦の敗戦まで命脈を保った。

スペイン・ハプスブルク家は三十年戦争と一六五九年の対仏戦争の敗北の結果、凄まじい勢いで坂を転げ落ちていく。オランダの独立に続いてポルトガルの独立を許し、一七〇〇年、カルロス二世の死をもってスペイン・ハプスブルク家の王統が断絶。スペイン継承戦争(注15)を経てスペイン王国はブルボン家の王を迎えることになる。リシュリューのハプスブルク家打倒の野望は半世紀を経て実現した。

バイエルン公国は選帝侯の地位を確実なものとした後、やがてハプスブルク家と並ぶ威勢を誇るようになる。マクシミリアン一世の孫娘マリー・アンヌ・ド・バヴィエール(注16)はルイ十四世の皇太子ルイと結婚し、その子はスペイン継承戦争を経てスペイン王フェリペ五世として即位。同じくマクシミリアン一世の曾孫カール・アルブレヒト(注17)はマリア・テレジアの夫フランツと神聖ローマ帝国皇帝位を争い、後に退位したものの、一時はハプスブルク家に代わって即位するほどであった。神聖ローマ帝国内の領邦国家ながら全欧州に影響力を持つほどに成長し、ナポレオン戦争においても時の選帝侯マクシミリアン四世(注18)はナポレオンと同盟を結ぶことで独立を堅持。プファルツ選帝侯領と統一しバイエルン王国となる。その後もドイツ連邦有数の強国として、プロイセン王国と対立。ビスマルクにより北ドイツ連邦(注19)が成立した後は南ドイツ諸国の中核として最後までプロイセン主導のドイツ統一に抵抗し、ドイツ帝国成立後もドイツ議会においてプロイセン王国に次ぐ地位を確保(注20)した。一九一八年のドイツ帝国崩壊とともに王国も消滅し、ヴァイマール共和国に吸収される。不撓不屈の伝統を持ち続けた小さな大国としてその名を歴史に刻んだ。

ブランデンブルク=プロイセン同君連合は一六四〇年にフリードリヒ・ヴィルヘルムがブランデンブルク選帝侯としてあとを継がなければ、ほどなくして消滅していたかもしれない。それは世界の歴史を大きく変えることになっただろう。同地は三十年戦争において最も戦災を受けおよそ領民の半分が死亡したとも言われる。フリードリヒ・ヴィルヘルムは講和会議を巧みに誘導してまるで戦勝国のように様々な領土を獲得。荒廃した領土の復興を行いつつ、税制を整え、軍備を増強し、一六五五年、当時プロイセンの宗主国であったポーランドに対してスウェーデンと同盟して戦争を行いポーランド・ロシア連合軍を撃破。巧みに同盟外交を展開して独立を勝ち取り、一六七五年には全盛期のフランス=スウェーデン連合軍をも撃破してブランデンブルク・プロイセン地域からスウェーデンの影響力を排除。宗教的にも寛容でフランスから追放されたプロテスタントを多く受け入れ、彼らの多くが技術者であったこともあり、国力を著しく高めた。一選帝侯領ながら神聖ローマ帝国から完全に自立を果たし、後のプロイセン王国の礎を築き上げた(注21)。その子は初代プロイセン国王フリーフドリヒ一世。大選帝侯として現代のドイツへと続く歴史の始まりに屹立することになる。

・・・少しさかのぼって、戦乱未だ収まらぬ一六四二年。二十二歳のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、十六歳のスウェーデン女王クリスティナに求婚している。政略か、はたまた聡明すぎる者同士何か惹かれるものがあったのかは定かでないが、この次代を担う若き二人の縁談が成立することは、無かった。

(終わり)

注1)玉木 俊明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)」P73-74
注2)de Gouden Leeuw―金獅子亭 » ブレダ攻囲戦(1637)Beleg van Breda
注3)この一連のスウェーデン=デンマーク戦争はスウェーデン軍司令官の名をとってトルステンソン戦争と呼ばれる。レナート・トルステンソン将軍はグスタフ二世亡き後スウェーデン軍を建て直し、勝利に導く三十年戦争後期随一の名将であるが、実はかつて捕虜になった経験から病躯であり、常に担架に乗っての指揮を行っていた。
注4)トルステンソン戦争 - Wikipedia
注5) 菊池 良生著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)」P186
注6)三十年戦争第4部 フランス・スウェーデン戦争
注7)ヴェストファーレン条約 - Wikipedia
注8)菊池前掲書P188-190
注9)菊池前掲書P192-193
注10)菊池前掲書P193
注11)クリスティーナ (スウェーデン女王) - Wikipedia
注12)神聖ローマ帝国 - Wikiquote
注13)玉木前掲書P74
注14)オランダ海上帝国 - Wikipedia
注15)スペイン継承戦争 - Wikipedia
注16)マリー・アンヌ・ド・バヴィエール - Wikipedia
注17)カール7世 (神聖ローマ皇帝) - Wikipedia
注18)マクシミリアン1世 (バイエルン王) - Wikipedia
注19)北ドイツ連邦 - Wikipedia
注20)ドイツ帝国 - Wikipedia
注21)フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) - Wikipedia

参考書籍
・菊池 良生著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)
・菊池 良生著「傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
・正村 俊之著「グローバリゼーション-現代はいかなる時代なのか(有斐閣Insight)
・玉木 俊明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)
・松井 芳郎著「国際法から世界を見る―市民のための国際法入門

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