2009.06.12 Friday09:39
僕についての簡単な個人史その2(大学卒業から現在まで)
前回(僕についての簡単な個人史その1(誕生から大学卒業まで))は大学卒業まで書いたので、その後について。
何かの言い訳として書いているつもりも無く、また言い訳のように見られないように気をつけているつもりなのだけれど、もし、そう読めたら無意識的に何かに対する言い訳をしようとしているのかもしれない。そのような自分の心理については極力客観的でありたいとは思う。
97年春に大学を卒業して最初に就いた仕事は将来の代理店独立を前提とした損害保険の新規開拓営業で、正社員ではなく請負社員という形態だった。一定の基礎知識を叩き込まれたあとは営業手法から何から何まで自身の裁量に任されており、3ヶ月毎に給与やインセンティブが見直され、場合によっては首が飛ぶもので、なんとか一年模索しながらできる限りのことはしてみたが、成果を挙げることが出来ず98年の春、会社都合により退職した。
98年当時は世間的には不況の只中でもあったし、大学を六年かけて卒業し、理由はどうあれ一年で仕事を辞めているので仕事はなかなか決まらなかった。結局雇用保険の受給期間が過ぎても仕事は決まらず、お金も尽きてとりあえずの生活費だけでもと思い、98年の12月から近くの書店兼レンタルビデオ屋でアルバイトとして働き出した。特に希望した訳ではないが、主にレンタルビデオコーナーに従事することが多かった。
インターネットを始めたのは失業中だった。最初の会社の同僚の一人がパソコン通信にはまっていて、それに影響されて97年の夏にWindowsマシンを購入。最初はいわゆるネットサーフィンをしたり、仕事用に情報収集をしたりだったが、徐々に個人のホームページなどを見るようになり、個人サイトの掲示板でのコミュニケーションを始め、すぐにホームページを作って日記などをアップ。はじめてのホームページ立ち上げは98年の5月ごろだった。もう10年以上経つ。
はじめて作ったホームページはteacupの掲示板と日記のシンプルなものだったが、徐々にはまり始めて、知り合った人とオフ会を定期的に主催したり、独自ドメインを取ったりして色々模索していくうちに、徐々にバイトでほぼ映画観放題だったこともあって映画サイト化していった。
映画は嫌いじゃないけどそれほど多数見たわけではなく、まぁ、人並みか、人より少し多いぐらいだっただろうが、レンタルショップで働き出してからは映画を異常に観るようになっていた。映画を何度も観るうちに、映画を観るだけじゃなく映画の周辺知識を調べ、ビデオだけじゃなく映画館の新作もやたら観て、その感想をサイト上に色々書いたりしていた。そうやって知識をつけていくうちに小さなレンタルショップだったのでビデオの仕入れや陳列、コーナー展開も任せてもらうようになり、まぁ、時給は安かったが(630円だったかな。)レンタルビデオ屋という仕事はとてもやりがいを感じていた。
しかし、レンタルビデオ屋というのは、徹底的に規模がものをいう業態で、お店が小さいというのは、よほど何かに特化しない限りお客さんは満足しにくい。単純に良い映画をもっと多くの人に知ってもらいたい、お客さんが見たいと思う映画は多く揃えてすぐ観れる状態にしたいという思いは、せいぜい超人気タイトルですら2〜3本しか入荷出来ない小さな店では空回りしはじめる。そこで、より大きなお店へ、より大きなお店へとバイト先を転々としていた。できれば正社員になりたかったが、それはなかなか難しかったので、アルバイトや契約社員として。
しかし、規模が大きくなるということは、組織としての分業体制が整い、個人の権限が小さくなるということで、良い映画を、面白い映画を伝えたいという個人的な思いはあっても、それを実現するのは会社であったりお店全体で行われるのであって僕の手によるものではなく、小さなお店には存在しないような多様な在庫が目の前にあるのに、それを自分の手で活用できないもどかしさみたいなものを抱いたまま、ある日燃え尽きてビデオ屋はやめた。映画も狂ったように観ることはなくなり、最近は年に数本程度しかみていない。
今振り返ると、WEB上に感想を書くという行為が映画を観ることや映画の情報を調べることなどに過剰に熱中させる要因になっていたと思う。ネットではダイレクトに人に伝えられるのに、日常の仕事では伝えられないもどかしさみたいなのが徐々に大きくなってプツンと映画を観なくなった。多分、映画を観るという行為そのものが自分の楽しみというよりは他者に対する自身について伝える手段として捉えていたのだと思う。映画を観ることが人に伝える手段で無くなったときに、また観ることを辞めたということだろうか。と思うがよくわからない。
最終的に三社のレンタルショップで働き、辞めたのは2003年の冬で、すでに31歳になっていた。とりあえず派遣社員で食いつなぎながら、しかし先は全く見えない状態で、当時はやり始めていたブログでちまちまと何かを書いたり、2chで暇をつぶすだけの毎日だった。
2004年2月に鮮烈にデビューしたブログサービスにJUGEMというサービスがある。当時かなりの話題で僕も開始当日に使ってみてすぐにメインで使うようになった。当時、福岡にあった有限会社paperboy&co.という会社が運営していて、ふと家入社長(当時)のブログを見ると社員を募集したいという趣旨のエントリーが上がってて、思わず「JUGEMユーザーです。面接してください」的なぶしつけなメールをした。何の仕事が出来るんだよって話なんだけど。
数日後に社長から返事があり、面接。当時はまだGMOとの資本提携前だったが発表直前という状態で、「実は本社を東京に移転するんだけど、東京勤務でも大丈夫?」と言われ、思わず二つ返事でOKした。今までのすべてをリセットする必要があるのだと感じていた。
2004年4月に入社し、4月末には上京。とりあえず福岡の家財道具何もかも処分して、当面の衣類と少量の本ぐらいを残しダンボール二箱だけにしてしまった。冬服すらも全部捨てていた。意味は無いが捨てられるものはすべて捨ててしまえと思っていた。
まず最初に就いたのはJUGEMのカスタマーサポートで単なるユーザーでしかなく技術的知識は皆無だったのでとにかく勉強した。おかげで色々技術的知識は人並みについた。JUGEMが正式版に移行する時のトラブルでは僕の名前で広報していたので、2chに山野スレが立ったりしたのはいい思い出(笑)になったけど、きつかった。
その後紆余曲折あって、前任者の退職にあわせて管理部門に異動。といっても当時の管理部門は僕合わせて三人で、しかも、一人は当時派遣社員、僕ともう一人も管理部門の仕事は未経験という状態でまぁ、管理体制などあって無いようなものだったのでとにかく、みんなで勉強しまくって調べまくって聞きまくって間違いまくって協力しまくってた覚えしかない。
ただ、事業が急成長中だったこともあり、上場を視野に入れた体制作りをする必要があって急速に管理部門を増強しつつ、組織の拡大にあわせた管理部門をみんなで協力して急ピッチで作っていこうとしていた。って、なんか仕事してたんだか勉強してたんだかわかんないぐらいの毎日であまり覚えてない。気がつくと、取締役総務人事部長という重任を与えていただいていて、その期待に応えなければならないという思いは強くあった。
レンタルビデオ屋のフリーターの兄ちゃんが、数年後に今をときめくベンチャー企業の取締役て、ねーよ、って感じは当然自分自身あって、その期待と役職に応えられるのか?というのは、ふと油断すると頭をもたげることはあったけど、「一期は夢よただ狂え」的にとにかくやるしかないなという思いが強かった。
が、ある時期以降、朝起きて会社に行こうとすると動悸が激しくなったり頭痛がひどくなったりということがおきるようになり、色々業務にも支障が出始め、ミスも頻繁になり、時に決定的なミスなどもあり、いわゆる適応障害というやつだったんですが、出来なかったことを病気のせいにするつもりは無い。ただ、その任にあるべきではないという判断から2007年7月に退任した。結果として、逃げた、という自責の念はたぶんもう消えない。その節は家入現COOや佐藤現社長はじめ本当に皆さんにはご迷惑をおかけしてすいませんでした。狂ったように散歩しはじめたのはこの頃だった。
なぜ、僕のような未経験の人間が一時的にではあれベンチャー企業の取締役まで任せていただくことができたのかというと、「身を差し入れる」ということだと思う。組織が急成長する過程でやらないといけないけれどやる人がいない作業をとにかくなんでもやった。こまけぇことはいいんだよ、って最近流行のAAがあるけれど、そういう人が必要な時期というのは企業拡大の過程で必ずあって、そこに上手くはまったというだけのことなんだろうと思う。決して能力があったとか何かが秀でていたとかそういうのでは全くなく、はまった、という、ただそれだけのことであり、そしてそういう巡り合せはそうそうあるもんじゃない、ということでもある。
ただ、会社というのは組織である以上、規模の拡大は分業体制の整備の過程でもあるので、なんでもする→専門性の中で極めるという未分化から分化していく過程で自身の立ち位置を築けるかどうかが決め手になっていくんじゃないかと思う。振り返ると、そこだなぁと。組織が組織として機能し始めたときにその中に居場所を見出せるのか?はベンチャーが成長していく過程で多くの人がぶつかる壁なんじゃないかと思うし、そこを上手くすり合わせてあげられるかが組織の成長の肝になるんだよな、と。そして、ペパボはそれが比較的上手く行った会社なんじゃないかと思う。
以前書いた記事(paperboy&co.がトリックスターであったころ)とあわせて、僕の立場を考えればペパボの頃のことについてはこれ以上は書くべきではないかなとも思うので今回が最後です。
退任してからは静養しつつこのブログを書いたりして、徐々に多くの人にこのブログも見てもらえるようになってきた。昨年から他のベンチャー企業の管理部門をやったり、人事コンサルタントに転職したりしたのち、またいろいろあって現在に至っているのだけれど、このブログの存在感は僕にとって、とても大きなものになってきている。自身を取り巻く様々な事象を知りたいと言う欲求と、自身を内省した思考の過程をブログを書くことで辿り、知ったこと、考えたことをアウトプットしている。
最近は社会保険労務士の学校に通ったりしているのだけれど、もちろん将来に向かって知識を身につけたいという思いがまずあるのだけれど、過去に向かって、あのとき任された、全うできなかった役割に追いつきたいと言う思いもまたどこかにある。ただ、たぶん追いつけないだろうという確信を持っていて、それはあのときのように何かに「身を差し入れる」ことはもう決して出来ないだろうということだ。たとえ、どれほど知識を得て、さまざまな経験をし、そして専門性を身に着けようとも、たぶんあのときの僕には、その一点においてもう追いつけないだろう、と思う。が、過去と将来とに向かって学び続けなければならない情動が強くあり続けている。
そのような過去と未来との間で一歩引いて観察者的に振舞うだけの自分になっているなぁと強く感じていて、再びどこに(どこに、というのは物理的な場所ではなく)自分の所在を置くべきか、が目下の僕の課題。というところで、次のエントリーでこれからについてと、なぜこのように自分の過去をブログに書こうと思ったのかについて書く(まぁ、ひとつは昨日書いたとおりアクを昇華させるということなのだけれど→自分自身のアクを出し、昇華させる過程は思っていたよりも難しい。)、予定。
関連エントリー
・僕についての簡単な個人史その1(誕生から大学卒業まで)
・paperboy&co.がトリックスターであったころ
・子供の頃、狂った様に絵を描いていた。17歳で全く描けなくなった。
・「焼畑農業」的な執着と漂泊の人生観について
・僕にとっての散歩とは何か、について
・常に「この人生」より「もうひとつの人生」を選んできた
・36歳。最近、しきりに四十代になった自分を考える














