法教上人塚跡

法教上人塚跡

寛文四年(1664)に亡くなった法教上人という高僧の墓があったと伝えられる場所。この法教上人だが、人々からの信望厚かったということの他は、その名前も出身も定かではない。

言い伝えではこの塚にお参りすると百日咳が治ると言われ、多くの人が参り、治癒したときはお礼に甘酒を供えたという。近所の子供たちは、その甘酒が温かいうちにこっそり飲んでしまったというファニーなエピソードもあるのだそう。

おそらく、実在の人物ではないのだろう。ここに人口か自然と出来たものかはわからないが、塚があり、いつしかそれが法教上人という架空の高僧がいたという物語が設定され、信仰の対象になっていったのだと思われる。

今は上人を祀った碑は近くの真福寺の境内に移設され、塚も無くなり、かつてあったことを伝える案内用の石碑だけが、当時の人々の信仰の様子を伝えるだけになっている。

Y11 法教上人塚跡

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将監山遺跡(世田谷区瀬田4丁目近辺)

瀬田近辺を歩いたときに将監山遺跡の跡に行ってみました。
将監山遺跡石碑

昭和49年(1974年)、縄文式土器が発掘され、昭和57年には先土器時代のナイフ形石器一個、縄文・古墳時代の土器等230点あまりがこのあたりから出土した。

中世、このあたりに住んでいた柳田将監にちなみ、小高い台地になっているこの一帯は将監山(しょうぎやま/しょうげんやま)と名付けられており、かつては将監が入定した塚があったという。

現在は聖アントニオ神学校となっており、石碑は教会の門をくぐったすぐ左手にある。

で、その名前の由来となった柳田将監という人物なんですが、調べてみても何者でいつの時代の人物なのかよくわからない。ただ、笛師でいろいろな伝承が残っている人物であるようです。実在の人物だろうか?

明治の詩人薄田泣菫は「初蛙」という随筆で柳田将監のエピソードを紹介している。


薄田泣菫 初蛙
むかし笛の名人に柳田将監という男がありました。自分の茶室の潜(くぐ)り近くに竹製の刀掛を拵えておきました。ある日の事、将監が笛を取り上げて、自慢の一曲を吹き出すと、側から涼しい声でそれに音を合わすものがあります。将監は不思議に思って、声のするところを探しますと、それは刀掛の竹からで、竹のなかに雨蛙が一匹棲んでいました。
「これは珍しい。あまり騒ぎたてて、奴さんが逃げ出さないようにしなくちゃ。」
 将監は家の者に言い付けて、その刀掛のあたりにはあまり近寄らないことに決めました。そして時折笛を吹いて聴かせると、その度に刀掛からもいい声が流れ出ました。音合せの度がだんだん重なってゆくうちに、雨蛙は節廻しもひどく上手になって、将監が吹くどんな曲にも鳴きつれることが出来るようになったと言います。
 将監が笛を愛するのと同じように、雨蛙をも愛して、それに音曲を仕込んだ心を、私はなつかしまずにはいられません.

聖堂
聖アントニオ神学校

周辺のなだらかな坂
聖アントニオ神学校周辺

このあたりは、砧公園、岡本静嘉堂緑地、丸子川などの散策スポットのほか、二子玉川駅からも程近く、静かな住宅街となっていて歩いていても心地いいです。また、旧大山道が通っていたこともあって歴史に思いを馳せながら歩く楽しみもあって、隠れ散歩コースかなーと思います。

将監山遺跡

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東条英機邸跡

先日、用賀近辺を散歩しながら東条英機邸跡にも立ち寄りました。

東条英機邸跡

東条英機邸跡

用賀駅から徒歩5分、国道246号線と中町通りが交差する四つ角の裏に太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣東条英機の私邸跡が残っています。

在任時は首相と陸軍大臣を兼務していたため、主に陸軍の官舎で生活し、休日はここで家族と暮らし、首相退任後の昭和19年7月以降はこの邸宅で庭で野菜作りなどをしながら静かに過ごしたといわれています。

しかし、太平洋戦争終結後、連合国軍が進駐してすぐの昭和20年9月11日、この邸宅の周りを進駐軍が包囲するなかで東条はピストル自殺を図るが失敗。昭和23年12月23日、東京裁判によってA級戦犯として絞首刑に処せられその生涯を閉じました。

そのような歴史の舞台となった邸宅ですがその跡地は現在は宗教団体の施設となり、跡地であることを示す石碑も裏通りにひっそりと立てられているだけとなっています。東条英機自体に特に思うところはないのですが、石碑が無ければ忘れ去られていく場所のひとつだろうな、と思いました。そのように流れ去っていく歴史の方が圧倒的に多いんだよな、と。

東条英機邸宅

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分倍河原古戦場跡

12月初旬、府中一帯を散策。分倍河原古戦場跡に立ち寄りました。かつて鎌倉幕府が滅亡へと至る天下分け目の合戦が行われた歴史的名所です。

分倍河原古戦場跡(新田川分梅公園)

元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品神社(現在の群馬県太田市新田市野井町)で鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、利根川に沿って南下。挙兵時百五十騎余りだったが、新田党や甲斐源氏、足利高氏の嫡男千寿王(のちの義詮)らが続々合流し、20万余りの大軍勢となった。

新田軍はその後鎌倉街道沿いに南下し、長崎高重、桜田貞国らが率いる鎌倉軍を小手指原の戦い、久米川の戦いで撃破して進軍。しかし敗れた幕府軍も態勢を立て直しつつ、鎌倉から執権北条高時の弟北条泰家を総大将とする10万の軍勢も合流して、ここ分倍河原で陣を敷いたと伝えられています。

元弘3年(1333年)5月15日、新田軍が分倍河原に到着し、正面から激突。後がない幕府軍が奮戦して新田軍を撃破し、新田軍は現在の埼玉県狭山市堀兼あたりまで敗走するが、翌未明には態勢を立て直して、幕府軍を奇襲して撃破した。これによって北条軍は壊滅状態となり、この合戦から三ヵ月後、東勝寺に立てこもった執権北条高時らは、西から足利高氏、東から新田義貞らに完全包囲されて、自害。鎌倉幕府が滅亡する。

また、時は流れて享徳4年(1455年)1月21日、足利成氏率いる鎌倉公方勢と上杉氏の関東管領勢が、やはりここで戦っている。足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことに始まる足利氏と上杉氏の対立が先鋭化。足利氏は500騎の手勢でここ分倍河原で上杉氏に奇襲攻撃を仕掛け、一進一退のところに結城氏が足利側の援軍として上杉氏を攻撃。扇谷上杉家当主上杉顕房が戦死する。後に応仁の乱と並んで戦国時代の遠因である享徳の乱のきっかけとなった合戦がここで行われた。

鎌倉時代の終わりと、戦国時代の始まりと、二度も、日本史上の一大転換点となった合戦の舞台と成ったスポットですが、今は静かに犬を散歩させる人や、ベンチで佇む老夫婦、サッカーで歓声を上げる子供たちの姿が見えるだけの、静かな公園です。

分倍河原古戦場跡(新田川分梅公園)

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府中の三千人塚

三千人塚

12月初旬、府中一帯を散歩したときに、住宅街の合間で三千人塚なる塚を見つけました。三千人塚という名前の由来は、昔、新田義貞と北条泰家率いる鎌倉幕府との合戦(分倍河原の戦い)で亡くなった三千人の戦死者を埋葬したという言い伝えからだと言われていいます。しかし、真実は違うんだそうです。

現地の案内板より
三千人塚は、江戸時代の地誌「武蔵名勝図絵」などにも紹介されている由緒ある塚です。塚の上には、多摩地区最古となる康元元年(一二五六)の板碑が建ててあり、「板碑の立つ塚」として、昔から注目されてきました。
昭和三十年に地元の郷土史家により、この塚の西側が発掘調査され、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器(四個)が出土しています。
平成十七年に学術調査を行ったところ、塚の東側から、石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土しました。この調査により、現存の塚の高まりは、元弘三年(一三三三)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の戦死者を埋葬したという伝承とは関係がなく、江戸時代に造られたものであることがわかりました。
三千人塚は、鎌倉時代から室町時代の在地の有力者一族による小さな塚(墓)の点在した場所が、江戸時代には信仰の対象となり、地元の文化財として今日まで大切にされてきたといえます。

このあたりの信仰が生まれる過程ってすごく面白い。地元の有力者たちの墓が点在したあたりが、地元の有名な合戦の戦死者を祀ったものだという、現地の人たちにとっての共有財産となる物語性が付与され、信仰され語り継がれてきた訳ですね。この案内板を読んでおおっと思いました。真実よりも大事な物語があるんだなぁと。

ぷらーっと散歩がてらに見つけた、何気ないこういう石碑に、歴史と色々な人たちの思いが投影されていたりして、そういう出会いと発見が散歩の醍醐味の一つなんですよね。


三千人塚
東京都府中市矢崎町2-21-2

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